赤い公園「絶対零度」における三拍子と四拍子の共生 ── 追悼: 津野米咲氏

2020年10月18日、日本のバンド「赤い公園」のリーダーである津野米咲 (つの・まいさ) 氏が亡くなった。享年29。

 

私が赤い公園の存在を知ったのはつい最近のことだ。生活パターンが変わった関係で、NHK-FMの「ゆうがたパラダイス」という番組を車中で聞くようになったのが数か月前のこと。毎日変わるパーソナリティの中でも、ゆるっとした声で鋭いことをさらっとつぶやく水曜担当の津野米咲氏は異彩を放っていた。

 

津野氏が「赤い公園」というバンドのリーダーであることを知り、アマゾンHDで検索して最初に出てきたアルバムについて再生ボタンを押したのだが、10秒ほどで、このバンドがただ者ではないと直観し、居ずまいを正して最初から聴き直した。これからすべてのアルバムをじっくり聴きこんでいこうと決めていた矢先に、津野氏の訃報が飛び込んできた。

 

というわけで、私はまだこのバンドの凄さを直観した段階にきているだけであり、入口に立ったばかりの存在が赤い公園について語るのはおこがましいことこのうえない。しかし、異形の才能の持ち主に違いないと直観した方の訃報に接し、何か書きたいという衝動をおさえることが私にはできない。凄いと思った方を追悼するのにふさわしいのは、その凄さについて語ることだと思う。そこで僭越ながら、「絶対零度」の拍子チェンジについて思ったことを少しだけ書かせていただきたい。

 


この曲は、周知のように、拍子が頻繁にチェンジする。インタビューにおいてこの曲の拍子について尋ねられたメンバーは、次のように答えている。

 

――これ、基本は三拍子ですかね。

津野:何拍子だろう?

歌川:いろいろ。三も四も五も出て来る。イントロが四、Aメロが三。間奏は五とか。

 

――さり気にやってるけれども。すごいですよ。昔からこのバンドの特徴ではあるけれど。

津野:さり気にやるのが大事です。

歌川:考えたら終わりだよね。わかんなくなっちゃう。

 

出典: 「赤い公園 “ずっと青春してる”4人に訊く、新体制で切り開くバンドの現在と未来」(取材・文: 宮本英夫)

 

興味深いコミュニケーションである。二人とも「基本は何拍子か」という問いに直接答えてはいない。津野氏は「何拍子だろう?」と、自問している (または自身で答えるのを避けて隣の歌川氏に問いを投げている) し、ドラマーの歌川氏は、多様な拍子が存在していることを例示するにとどめている。なぜこのようなやり取りになってしまったのか、考えてみたい。

 

まずは拍子チェンジの概略を確認しておこう。YouTubeにアップされているMVのタイム表示 (アルバムのタイム表示とは異なるので注意) をもとに概略を描いてみた。MVを視聴しながらご確認いただければ幸いです。

 

MVTime

パート

歌詞冒頭

拍子

0:04

冒頭のギターノイズ

 

テンポフリー

0:09

ドラムのフィルイン

 

三拍子

0:10

イントロ前半

 

四拍子

0:20

イントロ後半

 

三拍子 (6/8拍子)

0:24

ヴァース (Aメロ)

アラバの海の真ん中

三拍子 (6/8拍子)

0:37

間奏

 

三拍子 (6/8拍子)

0:45

ヴァース (Aメロ)

ガラス細工の鉢ん中

三拍子 (6/8拍子)

0:59

ブリッジ (Bメロ) 前半

息を吸って吐くことが

三拍子 (6/8拍子)

1:11

ブリッジ (Bメロ) 後半

燃えるような赤い魚

四拍子

1:16

コーラス (さび)

体感温度疑って

四拍子

1:39

間奏

 

三拍子(6/8拍子)

1:41

ヴァース (Aメロ)

ガラス細工の鉢ん中

三拍子 (6/8拍子)

1:54

間奏前半

 

五拍子 (三+二拍子)

2:04

間奏後半

 

三拍子(6/8拍子)

2:09

ブリッジ (Bメロ) 前半

あたり前の毎日が

三拍子(6/8拍子)

2:21

ブリッジ (Bメロ) 後半

燃やし尽くして

四拍子

2:27

コーラス (さび)

塩分濃度振り切って

四拍子

3:13

間奏前半

 

五拍子 (三+二拍子)

3:18

間奏後半

 

三拍子

3:20

ヴァース (Aメロ)

アラバの海の真ん中

三拍子 (6/8拍子)

 

歌川氏が説明してくれたように、確かに三拍子、四拍子、五拍子が入り乱れている。といっても、拍子チェンジが行われる曲は世の中には多数ある。この曲における拍子チェンジの特色はどこにあるのだろうか。

 

まずはイントロ後半(0:20)に注目してみよう。ここは三拍子になっているのだが、イントロ後半が始まった時にはそれに気づかず、しばらく経ってから拍の帳尻が合わなくて「あれ?」と思う方が多いのではないだろうか。1:39の間奏も同様である。

 

気づかないのはおそらく、三拍子の典型的なリズムパターンである【強・弱・弱】(タン・ツン・ツン) を用いず、それをずらしたシンコペーション (タン・ツターン) になっていて、四拍子のまま進行していると思い込んで聴いても違和感を憶えないようにできているからだろう。このようにシンコペーションという緩衝材を置くところが、「さり気に」拍子チェンジしていると視聴者に感じさせる仕掛けになっているように思う。

 

もう一つ例を挙げよう。ブリッジ前半 (0:59) はヴァースを受け継いで三拍子なのだが、後半 (1:11) は四拍子にチェンジする。しかしここも、四拍子にチェンジした瞬間にはそれに気づかない方が多いのではないだろうか。それは、以下のようなしかけが施されているからだと思う。

 

まず0:59から始まるブリッジ前半は、バスドラとスネアが強拍を明確にし、三拍子であることをしっかりと意識させる。しかし途中 (1:07) からヘミオラ、つまり、【強・弱・弱】を基本とするのではなく【強・弱】を基本とすることにより三拍子なのに二拍子のように聴こえさせる音楽上のトリックをしかけ、視聴者が持っていた三拍子の感覚に動揺を与える。下地が整ったところでしれっと四拍子に移行 (1:11) し、すかさず八分音符単位でスネアとベースが等間隔で連打する。これにより視聴者が持っている拍節の感覚は麻痺させられてしまう。なぜなら、人は強迫と弱拍の組み合わせによって拍節を感じ取るものだが、ここでは強迫の連打しかないので、今鳴っている音それ自体で拍節を感じ取ることができないからだ (そしてヴォーカルのメロディーはシンコペーション!)。そこで視聴者は、今鳴っている音そのものからではなく、これまで聴いてきた音の流れの記憶から、三拍子が続いているはずだという前提で連打を聴くことになる。かくして、四拍子に変わっていることに視聴者は気づきにくいのだ (ちなみにこの部分の拍数は12個で、四拍子でカウントすると3小節だが、三拍子でカウントしても割り切れて4小節となり、帳尻があうため、なおさら気づきにくい)。以上のように、ここではヘミオラや強拍の連続という、拍節の感覚を狂わせる仕掛けが施されている。

 

ちなみに、その後に続くコーラス (1:16) では、四つ打ち (バスドラが拍ごとに規則正しく打ち込まれる)という非常に安定した四拍子のビートが刻まれ、三拍子から四拍子への移行が確定する。まことに見事な移行だ。といっても視聴者の気持ちは安らぐわけではなく、裏打ちのハイハットが2ビートを感じさせ、追い立てるような感じが視聴者を興奮させる。三拍子から四拍子へと移行する際に違和感をかすかに覚えた視聴者がいたとしても、すぐに忘れてコーラスの熱狂に没入してしまうだろう。なんと用意周到なアレンジであろうか。

 

歌川氏は「考えたら終わりだよね」と述べているが、これはおそらく演奏時のことを指しているのだと思われる。これまで述べてきたように、曲は綿密に練り上げて作られているように思う。シンコペーション、ヘミオラ、弱拍抹消という音楽技法を巧みに用いることにより、拍子のチェンジが「さり気に」聴こえるように工夫されているのだ。

 

三拍子と四拍子の関係は、他の形でも存在している。0:37の間奏は三拍子なのだがドラムは二拍子 (本稿では四拍子と二拍子を同族のものと捉えます) のリズムを刻み続けている。2つのリズムが共存している。これもヘミオラだといってもよいが、むしろここではポリリズムと言いたい。普通ならば激しい葛藤が生じるところだ。しかし聴いていて不思議とドラマティックな緊張を感じることはなく、三拍子と二拍子がごくフツーに共存しているような印象を与える。この共存は第二のヴァース (0:45) でも続いているのだが、二種のリズムに緊張をおぼえる視聴者はほとんどいないと思う  (スネアだけ聴いていると二拍子なのだが、バスドラは巧みに三拍子というか八分の六拍子の基本からぎりぎり外れないように奏されているので、そのためかもしれない)。

 

三拍子と四拍子の共存といえば、1:54 (および3:13) から始まる間奏もそうだ。五拍子なのだが、実際は三拍子と二拍子が組み合わされたものと考えてよい。変拍子により激しい葛藤が生じているわけではなく、ここでも、三拍子と二拍子が仲良く共存しているような印象を与えるのである。

 

あらためて考えてみれば、三拍子のパートのほとんどは、実際は八分の六拍子である。本来は【強・弱・弱/強・弱・弱】を基本ユニットとする二拍子系のリズムだ。その意味で、三拍子と二拍子が交錯しやすい拍子がもともと設定されているわけだ。

 

生誕250年を迎えたベートーヴェンは、かつて英雄交響曲においてヘミオラを多用し、二拍子と三拍子の対立により生じる音のドラマを構築した。ベートーヴェンの場合、二拍子は途中で駆逐され三拍子が勝利の雄叫びをあげる。これに対し、赤い公園の「絶対零度」においては、四拍子と三拍子が対立しているわけでもなく、葛藤しているわけでもない。ボーダーレスに行き来したり仲良く共存したりしている世界がここにはある。

 

津野氏がインタビューにおいて「基本は三拍子ですかね」とたずねられ、「何拍子だろう?」としか答えられなかったのは、そもそも主たる拍子なんてものを意識していなかったからではなかろうか。葛藤・止揚のドラマを構築するのでなく、どちらが主でどちらが従という設定も置かず、どちらかの拍子にマウントをとらせることもなく、共生させているところが、斬新で、かつ、すこぶる現代的であるように思う。

 

こんなに「さり気に」凄い曲を作った津野氏の早すぎる死を悼み、謹んでご冥福をお祈りいたします。

 

(2020年10月28日記)