大崎事件最高裁決定についてさしあたりおかしいと思う2点

 

大崎事件の最高裁令和元年6月25日決定は、原決定および原々決定を取り消し本件再審請求決定を棄却するというものだった。予想外の結果である。本決定をじっくり検討する必要があるが、とりあえず2点メモ書きしておきたい。

 

第一に、「再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判における鉄則が適用されるものと解すべきである」と判示した白鳥決定 (最決昭和51・10・12刑集30巻9号1673頁) に違反し、証拠の優越基準で明白性判断を行った可能性がある。

 

本決定13頁に「知的能力や供述の変遷等に関して問題があることを考慮しても、それらの信用性は相応に強固なものであるということができる。」という文がある。この表現に強いひっかかりをおぼえる。「相応に」という日本語の使い方が意味不明なのである。「相応に」というのは、「年相応に」などという例を挙げるまでもなく、何かとつりあいがとれている、何かに照らしてふさわしいという意味である。しかしながら、「相応に強固なもの」といわれても、それがどういう意味なのか、文法的によくわからない。

 

もしかしたら、「A、B及びDの知的能力や供述の変遷等に関して問題がある」ことは認めつつも、信用性を高める事情がそれとつりあうくらいにあるという趣旨か? あるいは、最高裁は辞書にない「それなりに」という意味で間違ってこの言葉を使い、「A、B及びDの知的能力や供述の変遷等に関して問題がある」んだけれども、まあそれなりに信用できるんだという趣旨か?。どちらに解したとしても、知的能力や供述の変遷の問題があることを認めつつも、それと、信用性を高める事情とを単純にてんびんにかけ、後者のほうが強いからOK、と判断していることになりそうだ。

 

このような判断が、同じく本決定13頁にある「実質的な総合評価」の内実なのだと考えているとすると、これは合理的疑い基準に反すると言わざるをえない。合理的疑い基準によると、すべてが有罪方向に収れんしなければならないので、知的能力や供述の変遷等に関して存在する疑問はすべて解消される旨、あるいはそれらの疑問は合理的疑いとはいえない旨、説明できねばならない。しかしその説明は、本決定には、ない。白鳥決定違反ではないか。

 

第二に、本決定は、原々決定が明白性を認めた心理学鑑定について、「供述調書に現れていないことについて実際に供述人が供述をしていないといえるかどうか、……外在的条件との整合性等を考慮の外に置いて」いるので「相当程度に限定的な意義を有するにとどまる」(本決定10頁) としているが、これはチョコレート缶事件 (最判平24・2・13刑集66巻4号482頁) や勾留・保釈に関する事件 (最決平26・11・17判時2245号129頁、最決平26・11・18刑集68巻9号1020頁、最決平27・4・15判時2260号129頁、最決平27・10・22LEX/DB25447525等参照)において最高裁が示してきたメッセージ、すなわち、破棄したり取り消したりする際には下級審の判断が不合理であることを具体的に示さねばならないというメッセージに反するのではないか。

 

前述のように最高裁は、「供述調書に現れていないことについて実際に供述人が供述をしていないといえるかどうか、……外在的条件との整合性等を考慮の外に置いて」いると批判するのであるが、この種の問題は、当該心理学鑑定のみに存在するのではない。裁判官や裁判員が当該供述の信用性を判断する際にはつきものの限界なのである。したがって、このような批判は、最高裁自身にも突き付けられることになるわけである。

 

したがって最高裁は、鑑定に依拠した判断が不合理だというのであれば、鑑定によらない最高裁自身の素朴な経験則を用いたほうが供述の変遷等の意味に関する評価を正しく行えたのだという論証を行わねばならないはずだ。ところが、A、B、D供述の変遷等の意味に関して最高裁自身の評価を具体的に示した箇所は一か所もない。これでは、心理学鑑定の証拠価値を限定的なものにとどめるべきことを具体的に論証していないと言わざるを得ない。具体的に論証せずに「合理的疑いを抱かせるに足りるものとはいえない」(本決定13頁) と断じてしまったのは、下級審に発してきた「不合理であることを具体的に示せ」というメッセージを自ら反故にしたに等しいのではないか。

 

以上、外在的批判は脇に置いておいて、内在的批判2点のみをメモ書きしてみた。いずれもちょっとありえないミスではなかろうか。最高裁が何を考えているのかわからない、というのが今のところの正直な感想だ。

(2019年7月3日記)